性悪説の意味とは?
性悪説の意味①悪の心を持つ弱い人間が努力すること
性悪説の意味1つ目は悪の心を持つ弱い人間が努力することです。性悪説で多くの人が人間の本質を指すことは勘違いされています。性悪説の「悪」は悪人や罪人などを指すのではなく「弱い人間の心」を意味しているのです。人間は本質が悪なので環境や欲望を放置すると悪に走りやすく変化しやすい傾向を持っています。
悪(弱い心)の本質を成長する過程で、礼儀作法や社会模範を学び変化することが大切であるという意味も持っているとされています。欲望の心のまま放置してしまうことで、社会の秩序を乱してしまい破滅に導いてしまう可能性が高いことを示唆しているのです。
荀子が説いている「性悪説」は人間の自主性に重きをおいているので、神や運命などに翻弄されず、弱い心を自分でコントロールし制御していくことを大切にしています。本質が悪だからとどうにもならない意味を持つと捉えず、努力して改善していける意味を説いていると理解しておきましょう。
性悪説の意味②努力して善を得て立派な人間になること
性悪説の意味2つ目は努力して善を得て立派な人間になることです。性悪説の訳文でも「人間の本来の性質は悪であるので、それを善に変えるために人間(自分)の意思で努力することが必要である」という意味を持っています。性悪説は決して人間の本質が「悪」であるので悪人が多いという意味を持っているわけではありません。
上記にも記載しているように人間は弱い心を持ち、生まれてきてしまうので自分の意志で学問や礼儀を学び続ける努力をすることで、後天的に善を得るという意味を持っています。筍子が最も訴えたかったのは、どんな悪い心を持って生まれてきても努力次第で善人へ矯正できることを伝えたかったとされています。
又、荀子が主張した「人間の本質は悪の心がある」は、中国・日本・インドでは人間観としてあまり注視されていなかったともされています。性善説が儒教の定説に落ち着いていた時代では、異端の考えと捉えられていたそうです。
性悪説の意味③人を疑うことではない
性悪説の意味3つ目は本質は人を疑うことではないです。現代では勘違いされて「性悪説」の意味を理解している方が多くいるとされています。「人の本質(根本)は悪だから疑いを持っておくことが必要」などは性悪説の冒頭部分だけのとって解釈をしていて、本来の意味ではないことを覚えておきましょう。
現代社会でも教育や事件記事など、ビジネスおいて語られている「性悪説」の多くが間違った解釈で使用されています。ですが本来は「人間が努力(学びや行動)を継続することが大切」という基本理論を持ち、「礼節」や「義」を学ぶことや努力することの大切さを説いているのです。
努力や学びの大切さを説いているのに間違った解釈をしてしまうと、大切な教えや考え方が伝えられて行かないので、荀子が説いた本来の意味の「性悪説」をしっかり理解して使用するようにしましょう。そうすることで意味の誤認や使い方の誤用を防げるようになっていきます。
性善説の意味とは?
性善説の意味①全ての人間は善の心を持つ
性善説の意味1つ目は全ての人間は善の心を持つことです。性善説は一部の人だけではなく、すべての人間が善の心を持っているという意味を持っています。又、惻隠(あわれみ、そくいん)・辞儀(へりくだる)・羞悪(しゅうお、不義を認めない)・是非(善悪の判断)の4つの特に向かう心や感情を持つことを意味しています。
善の心や感情をそのまま放置して悪の方向(欲望や破壊など)に向かわせるのではなく、平和でより良い社会を築いていくために、善ある心を養い拡充させていくことが必要であるともされています。「性善説」の性は「天から与えてもらった人間の本質」とされ「善」は「道徳的に正しい行い」という意味も持っています。
性善説は本質にある善の心だけではなく、礼儀作法や義を学ぶなどの成長過程を得た結果の善ある心の立派な人間を作るという意味も持っています。人々が互いに思いあえる平和な社会を目標にした説であるともされているので、意味をしっかり理解しておくことも大切になります。
性善説の意味②善は努力を継続して続けて得る
性善説の意味2つ目は善は努力を継続して続けて得ることです。性善説は「人は本来、全の心を持って生まれてくる」とされ、成長過程で努力して善の心を開花させることが必要という意味を持っているとされます。そうすることで立派な人間に辿り着くことができると説かれていました。
性善説の重要視するポイントは「努力を続けることで善を開花させる」ことです。本質に善の心を持っていても、人間は弱い心を持っているので成長するにつれ善の心が薄れてしまったり、成長しないことがないように、常に努力して善の心を持ち続けることの大切さも説いているとされています。
善の本質を放置して成長させてしまうと、弱い心が欲望のままに向かってしまい、悪の心を持つ可能性があります。その為に立派な善の心を持つ人間になる為には、日々努力を続けることが必要になるとされています。又、「善」の心を持って生まれてくるから放っておいても大丈夫という楽天的思考を説いた意味ではありません。
性善説の意味③他人が善であるので信用していいは誤用
性善説の意味3つ目は他人が善であるので信用していいは誤用です。ビジネス(会社で部下を育てる研修の概念など)や法律、教育などの面で多く性善説の考えを用意ていますが、本来の性善説の意味と異なった意味で捉えている可能性が多いとされています。
本来の性善説が説いているのは「人間は本来、善の心を持っており開花させるために努力して立派になる必要がある」とされています。ですがビジネスなどの多くでは「他人は善の心を持ち行動しているので、信用して接する」と孟子の唱える性善説とは異なった意味を持った使い方をされています。
孟子が説いた性善説を使用してしまうと誤用になりますが、別の意味を持ち使われている場合は問題がないともされています。日本人は「性善説」で育っている傾向が強いので、本来の意味をしっかり理解しておきましょう。
性善説をといた孟子とは
性善説をといた孟子とは戦国時代の中国の儒教者です。性善説は人間の本来の性(天から与えられた本質の心)は善(道徳的に正しい物事)であるとして倫理学や道徳学を中心とした概念を持っていました。政治の在り方を考え、理想を各国の王や君主に説いて回った人物ともされています。
戦国の富国強兵の時代で、あえて「性善説(人間の善の本質を成長させる)」を基本とした仁義や得を根底に考え、民を大切にする王道の政治を行うように君主や王などに強く主張していきました。又、孟子の言葉や行いなどを詳しくまとめた「孟子」という書物もあります。
人間の本質を性悪説だと唱えた筍子とは?
筍子とは①戦国時代の中国の儒者
人間の本質を性悪説だと唱えた筍子とは1つ目は戦国時代の中国の儒者です。筍子は諸子百家の一人で名を況(荀卿じゅんけい)、性を荀といいます。一時は斉の「稷下の学(しょくかのがく)」で属し学んでいましたが、楚に赴き蘭陵で小史に就き、そこで生涯を終えました。著書に「荀子」を持ちます。
荀子は、人間自身が何物(運命論や天界、神からの干渉など)にも左右されず、能力を理解し自分自身で物事の善悪や行いを責任を持って、行動するべきだという思いや信念を持っていたとされています。
そのころの戦国時代の中国思想界は孟子が説いた「性善説」が正統な考えとされていたことから理解されることはなく異端視されていました。荀子の「性悪説」は長い年月の間は日の目を見ることはなく、研究がされ始めたのは清張の時代に入ってからとされています。
筍子とは②孟子の「性善説」に批判し「性悪説」を説いた人
人間の本質を性悪説だと唱えた筍子とは2つ目は孟子の「性善説」に批判し「性悪説」を説いた人です。紀元前3世紀ごろの中国で孟子の説いた「性善説(天に対する信仰心・自然の理は神の行い・運命論などの人間界と天界の関係を重視している)」に反対の意を唱え、人間の本質は悪であると「性悪説」を説いた人物です。
人間は自我を持ち行動することなどから、神が介入するような天道と自分の意志で動く人道を明確に分け、人に運命的な影響を与えることはできないとして、人間本来の能力や責任感を自覚することが必要とする人間主義を展開したとされています。
その信念を持ち、孔子から教えを受け継ぎ、諸子の思想を摂取・批判して荀子は儒学を体系化していきました。法家にも準ずる厳格な思想が生まれ、その思想を荀子の弟子の韓非子・李斯が考えを発展させていったといわれています。
性悪説と性善説の違いとは?
性悪説と性善説の違い①解釈の相違
性悪説と性善説の違い1つ目は解釈の相違です。性善説と性悪説はどちらも当時の君主や王などに対して向けられたもので相反するものではなく同じ方向を目指している説であり、どちらも努力を継続して善を得て、立派な人間を目指すことを説いています。ですが現代の多くでは異なった違う解釈をされています。
性善説は人は生まれながらに善の心を持っているのに悪人が多いのは政治の仕方や国の在り方が悪いという使い方をされていました。衣食住が足りて始めて礼節を重んじることがあり、人間として最低限の生活が送れないことは窃盗などの罪を犯してしまう可能性があり、このような世の中では、善が無駄になると意味しています。
性悪説は人は悪の心を持って生まれてくるので、幼い幼少のころから善の心を持つために、適切な礼儀作法や義などの教えを施す必要を示唆し、そして罪を犯してしまうのは人なので、それを当たり前のことと捉え、相応の処罰をする必要があるという意味を持っています。ですが現代の解釈は「悪人」「善人」で分けられています。
性悪説と性善説の違い②教育としての使い方
性悪説と性善説の違い2つ目は教育としての使い方です。性悪説・性悪説は教育の場でも意味の違いを持ち、ルールや教育方法が異なってきます。ですが性を「善」として人を導く方法か、性を「悪」として人を導く方法か、その先(方向)を良くするためにはどうしていけばいいのかという共通の目標を持っています。
性善説を元にした教育方法は「基本的には生徒(教えを乞う方)に自主性を持たせて、主体性を全面的に任せますが、間違いを起こしたり、道を踏み外す場合は生徒の教育が不十分であるとして、それは指導する側の教師(教える方)の指導が足りなかった」と捉えられます。
性悪説の教育方法は「生徒(教えを乞う方)は勉学をサボりを怠りやすいことを前提として考え、サボらないように教育を施し、社会で必要な知識や礼節などを学ばせる」ことに重点おかれています。どちらの方法もアプローチの仕方や利点、欠点が違いますが生徒をしっかり育てることを重要視されています。
性悪説と性善説の違い③ビジネス面では正反対の意味を持つ
性悪説と性善説の違い3つ目はビジネス面では正反対の意味を持つことです。教育としても性悪説・性善説は異なる意味を持ち、多く使われていますがビジネス面でもこの2つの説は使われていますが、解釈の仕方が大きく異なり、正反対の使い方でその意味を明確にしていないものが多いともされています。
一般的に性善説では「他人は善の心を持っているので、信用して接するようにする」と考えられて使用されています。逆に性悪説では「他人は悪の心を持っているので、全てに疑いを持って接するようにする」という違いを持つ使い方をされています。
この考えの多くは日本人が同国(日本人や日本の会社)の人に対して善、外国の人に対して悪という考え方を持っているとされています。この考え方はお互いの文化的な摩擦からきているのかもしれませんね。ですがどちらも本来の説からは離れているという共通点も持っています。別の意味として捉えておきましょう。
性善説・性善説の例えは?
性善説・性善説の例え①性悪説編
性善説・性善説の例えの性悪説をご紹介します。荀子が説いた「性悪説」の考えは現代でも様々な面で理解され、小説や例えなどで使用されています。ですが解釈の仕方を間違え、異なった使い方をすると誤用になってしまうので、性悪説を用いる時は注意しておきましょう。
戦国時代、孟子は性善説を唱え、告子の性無善無悪説に対抗した。 一方、荀子は性悪説を唱え、礼による後天的な修正の必要性を説いた。 漢代になると、董仲舒や王充が人間を道徳的レベルに応じて上品・中品・下品に分ける性三品説を唱え、これが後の儒教において標準的な性説となっていく。
引用 : 用例.JP
リアリズムは性悪説に基づく政治哲学に依拠する思想であり、理念や倫理の影響を重視せず価値判断を交えずに現実を直視して国際関係を客観視することを重視している。 リアリズムは新現実主義、さらに新古典現実主義として発展している。
引用 : 用例.JP
蒸発したのが二億七千万エンで、拾われたのが二億八千万エンである。 してみると東京では性悪説と性善説がほぼ同じくらいの強さで対面しているわけである。 正直な人の数は、想像するよりはたくさんであるようだ。
引用 : 開高健『ずばり東京』
上記の例えの他にも、沢山の「性悪説」の用いた例えがあるので、興味がある方は調べてみてもいいですね。性悪説に関して詳しく記されている荀子の書の「荀子」を読んで本質を理解するのもおすすめです。もし性悪説を使う場合は本来の意味を理解して使用するようにしましょう。
性善説・性善説の例え②性善説編
性善説・性善説の例えの性善説をご紹介します。こちらも上記同様に孟子が説いた「性善説」が現代でも多く使用されています。教育やビジネスの場でも多く使用されている「性善説」は異なった意味や別の意味でも使われているので、孟子の説いた性善説を使用する場合は意味をきちんと把握して使用するようにしましょう。
また理性の普遍性や不変性は人間の平等の根拠とされ、平等主義の主張となって現れた。 一般的に性善説的傾向が強く、この時代の自然法はほぼ理性法と同義である。 理性を信頼する傾向は往々にして実践理性の絶対化に進み、政治思想において急進的な傾向を生むこととなった。
引用 : 用例.JP
啓蒙主義の具体的成果で最大のものの一つである百科全書派による百科事典『百科全書』が、「科学と技術と技法の理性的な辞書」と自己を定義づけていることは、産業的なもの、経済的なものに対する啓蒙主義の関心の高さを物語っている。 理性の性善説に基づく功利主義的な人間観は経済思想において大きな進歩をもたらした。 フランスのケネーは経済活動の考察に理性主義的な根本法則を設定した。
引用 : 用例.JP
「アン」は性善説に基づいて書かれた小説である。 登場人物の総てがやさしい心を持ち、アンはそんな人々のあったかさに包まれてスックスックと育つのだ。
引用 : 大槻ケンヂ『のほほん雑記帳』
上記の他にも沢山の「性善説」の例えがありますので、性悪説を理解するとともに性善説についても勉強してみるのもおすすめです。性悪説・性善説どちらの意味もしっかり理解して、今後の生活や教育方法に関して活かしていきましょう。
性悪説と性善説の使い方は?
性悪説と性善説の使い方①性善説に基づいて作られたルール
性悪説と性善説の使い方1つ目は性善説に基づいて作られたルール(法律)です。日本は性善説を元にした法律やルールが多いとされています。法律などは意味をきちんと理解して使っているのか判断が難しい使用例でもあるとされているので、もし使用する際には注意しておきましょう。
ビジネスでも多いのが「人は善の心があるので疑わず、信じるべき」と孟子の教えとは違った解釈をされて論が問われています。もし性善説を元に教育方法やルールなどを作る場合は孟子の性善説を利用するのか、また別の意味の性善説を利用するのかハッキリ決めておくことが必要です。
性悪説と性善説の使い方②性悪説は後天的な修正を要する
性悪説と性善説の使い方2つ目は性悪説は後天的な修正を要することです。これは性悪説の意味をきちんと理解している使い方とも言われています。人間が善の心か悪の心を持っているかに重視するのではなく、人間は弱い心の持ち主なので欲望に向かってしまう可能性が高いから、成長過程で善を身につけるという使い方です。
本質が善悪どちらかに重点を置かず、「弱い人間の心を持っている」と理解して、教育の過程を大切に立派な人間を目指すことを説いています。この使い方は性善説同様に教育の場でも使われているので、意味をしっかりと理解しておきましょう。
また下記の記事では、厳しい親に育てられた子供の性格5選、厳しい家のストレスあるあるなどを詳しく紹介しています。子供の教育方法で悩んでいる人や厳しくおだてた方がいいのかと子育てに悩んでいる方は、こちらの記事も参考にしてみてください。
性悪説と性善説の例文
性悪説と性善説の例文を何点かご紹介します。今後の生活やビジネス面で性悪説・性善説を使用する際などに参考にしてみてください。性悪説・性善説どちらも本来の意味をしっかり理解した使い方をするようにしましょう。
- 性善説に基づき、日々の生活の自分の行いを反省し精進する
- 性善説に基づき、本当の意味で立派な人間を目指し、努力を続けていく
- 性善説に基づき、善の心を大切に育て、豊かな生活を送れるようにしたい
性善説例文
- 性悪説に基づき、後天的な努力を怠らず続けていきたい
- 性悪説に基づき、欲望のまま走らずに善の心を学んでいきたい
- 性悪説に基づき、子供の教育を施していく
性悪説例文
荀子以外の性悪説の考え方
荀子以外の性悪説の考え方①キリスト教の性悪説
荀子以外の性悪説の考え方1つ目はキリスト教の性悪説です。性悪説には筍子が説いたものだけではなく、キリスト教にも性悪説に近い考えの説があります。
キリスト教における性悪説はキリスト教の「原罪」の教義が元にあることから、性悪説の考えに近い立場にあるとされています。「原罪」は「人は生まれながら罪を背負い(罪人ではない)、罪からの解放は神の恩恵だけである」とした意味を持ち、筍子の性悪説とは少し意味が異なります。
荀子以外の性悪説②フロイトの性悪説
荀子以外の性悪説の考え方2つ目はフロイトの性悪説です。性悪説には筍子が説いたものだけではなく、フロイト(精神分析学)も性悪説に近い考えの説があります。
フロイト(オーストリアの精神分析学の創始者)は「人は本来、悪い心を持ち生まれてきているので、争いや戦争を起こす」と考えていました。その根拠になるのが、人間が破壊行動や衝動を生まれた時から持っていると意味し、この思想は「人間は悪の心持っている」と主張してないので筍子の性悪説とは解釈が異なります。
性悪説を理解して立派な人間を目指そう
今回は性悪説・性善説の意味や違い、性悪説を説いた荀子についてや使い方などをご紹介させていただきました。現代では性悪説・性善説の意味をしっかり理解されず利用されていることが多いので、誤認されている可能性があります。
違う意味合いで使用されているなら問題がないかもしれませんが、荀子や孟子の説を使う場合は本来の意味や使い方をしっかり理解しておきましょう。
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